「差別してはいけない」 当たり前のことです。ではなくなったのでしょうか。答えは勿論「いいえ」です。「差別するってどういうこと」 こう問われて答えられますか。答えられないでしょうね。それはあなたも潜在的に差別を容認しているからです。こんな風に言われて反論できるでしょうか。
私も、少年時代には「差別」につながるような発言をしました。考えも多分に差別的だったように思います。しかし、それを無知のなせることだったとは言いません。周囲の雰囲気がそうだったから自然に染まったとも言いません。結局のところは弱小な自分が逃げ込める場所として、「差別」を残して置いたに過ぎないからです。
差別ということが声高に叫ばれ始めたのは十年くらい前だっでしょうか。それまで普通に使っていた言葉が、「差別語」ということで急に使えなくなったりしました。確かに言葉そのものが差別を意識して使われたものもあります。それが淘汰されるのは当然でしょう。しかし、普通に使われていた言葉を、広く解釈すれば差別を想起させると判定して使用を禁止した例もありました。作家でも筒井康隆さんだけがこれに抗議したという記憶があります。明らかに差別したのならともかく、客観的に使用する特殊な言葉までひっくるめて消去したのは如何なものでしょう。私は本来左利きだった。したがって「ぎっちょ」という言葉は自分を表現するのにも使ってきたから、「その言葉は差別語だよ」と言われて不思議に思いました。第一「左利き」なんて舌を噛みそうで言いにくい。差別語という判定が言葉の文化の膨らみまで削ぎ落としてしまった気がします。直接的な表現を極力避けてきた日本語は回りくどい反面、とても奥深い表現ができます。直接的な物言いで幅のない表現に変えられて、かえって差別感を際立たせるようになった気がしてなりません。とはいっても、差別はされる側に判断が委ねられています。従って腹蔵なく話し合える間柄なら問題とならない言葉でも、そうでない場合は誤解が生じ易く難しいと思います。
差別感は貧富の差が出たことによって増幅して行きました。かつては落魄しても心に余裕を持って生きる姿を『腐っても鯛』と讃えましたが、今では「腐ったらダイナシ」として否定されます。つましく生きる人を見下げるようになったのも劣等感の裏返しで、心に余裕のないことの現れでしょう。
エゴとエゴが衝突する時には正義もへったくれもありません。力の強い者が勝つし、勝てば負けた者を徹底的に叩きます。二度と敵対することのないように、完膚なきまでにしておかなければ、またぞろ反攻の時を迎える可能性が出てくるからです。人々は自分のためだけに何かをしようとしています。大人がそういう姿勢を見せているのに、子どもにだけ公平さを説いたところで通用するはずはありません。子ども社会は大人社会の縮図です。『衣食足りて礼節を知る』は消えました。
「隣より文化的な生活がしたい」
「隣の子より、いい学校へ行かせたい」
親は窮乏生活に苦しんだ過去があるからこそ、自分の子どもには良い暮らしをさせてやりたいと考えました。そのためにはどうすれば良いのかということについて、本質的な解答とは言い難いのですが、
「よい学校を出て、よい会社(この場合に「よい」というのは、大企業を漠然と指しているだけ;筆者)に就職させる」という結論を導き出しました。
「とにかく大学を出したい」
という言葉が感覚的に使われだしたのも時を同じくします。学歴差別を体験した親たちが学歴をつけることが幸せになる道であると思い込んだからです。そのために我が子の適性も能力も無視した、親(この場合、多くは母親の思惑が先行する;筆者)の見栄のためではないかと思われる過酷なノルマを子どもに与えて叱咤激励するという状況が見られるようになりました。子どもにとってはたまらない現実で、当然それに耐えられない子もいたし、耐えたとしても何ら発展性のない成長しか遂げられない子もいました。救いのない現実から逃避しようとした子もいました。辛うじて自分を納得させるのに残されているのが「差別感情」です。順番を付けて、自分より下の存在を作ることでした。
「それでも俺の方が優れている。上手くいかないのは、俺より低レベルなやつらが邪魔をするからだ」(責任転嫁の妄想)
と思い込むことでした。
『健全な肉体に、健全な精神が宿る』という格言が至言であるという事実は、今日に至って続発する高学歴者の、どう考えても異常な発想に基づく数々の事件を見れば明白です。幼少児期に豊かな心を育てる一番大事な「外遊び」を奪ってしまったことで、健全な発育(精神的にも肉体的にも)が遂げられていない子どもに、親が無味乾燥な知識だけを詰め込むことに奔走した結果、知識と実際が無縁になってしまったのです。本来遊びを通じて当然知っていなくてはならない「常識」を知らない子どもが今も増え続けています。
例えば、子どもが刃物を用いて工作をしている時、一瞬のミスから指を切ったとしましょう。
①ケガをした。刃物を持たせるのは危ない。(現状認識)
②使用させるのは危険だ。ナイフを取り上げよう。(次期対策)
③キュウリすら切れない大人になって行く。(結果)
というように子どもを見守るべき大人の行動が展開していく。一事が万事です。親は子に対して良かれと思ってするのでしょうが、単に逆効果を産むというだけではない。もっと本質的な問題の胚胎を示唆しています。それが差別の意識にも連続していくのだと考えます。
「あそこの子と遊んではいけない」
「あんな子みたいになってはいけない」
案外多い発言です。これも親は子を思って言っているつもりなのですが、最低の子ども教育になって行く本質には気付いていません。この言葉を聞いた子どもが何をどう思うか、考えてもらいたい。
「俺はあいつよりましだ」
「あいつはあんなことをしているから、俺より劣っている」
優劣は競った結果として現れるもので、生まれや育ちの異なることは本来優劣の対象とはなりえないはずです。真に優劣を示す言葉ではないことを承知しておれば、先に述べたような言葉を決して言ってはならないことも当然理解できるでしょう。
指を切った痛みを体感していない子どもには、腕をもがれた痛みを理解することができません。同様に、遊びを知らない子どもにはあらゆる「アソビ」が理解できないと思います。「アソビ」があるからこそ調和もとれるのだし、円滑な動きを維持できます。アソビのない世界では力と力のぶつかり合いでは弱い方が砕けてしまいます。
最近は家庭をも顧みずに働くことが否定されるようになりました。一面では「ゆとり」のある生活を追及するようになったと見えますが、実はもっと複雑な問題が内在しています。猛烈に働くことに耐えられるだけの体力も気力もない人間がそれだけ増えてきたということです。経済の高度成長に伴って生活の安定が得られた日本では、偽りの平和の中に頽廃の悦楽を貪ってきました。中身のない「中流意識」を謳歌してきました。安楽な生活に慣れた者は苦労することを嫌います。大多数が汗水垂らして働くことを厭うようになったのです。
一つの会社で辛さに耐えるなんて真っ平御免だ。それより好きな時だけ働き、余暇を楽しむ方がいい。そんな安直な考えで企業への就職を考えない若者、また、人に使われるなんて真っ平だと、実力も何もないのにとにかく会社を立ち上げようとする若者が増えました。ところが、大不況が襲来し、派遣従業員の多くが職場を失いましたし、ベンチャー企業の多くが倒産しました。全ての派遣従業員が自己都合で正規従業員を目指さなかったのではありません。結果としてやむなく、という人もいました。しかし、人手不足の中小企業がある中で、「寄らば大樹の陰」を決め込んでいた数も半端ではありません。この期に及んでも楽して儲ける道をのみ模索している数は少なくないという現実を直視すれば理解できるでしょう。繰り返します、見せ掛けの中流家庭でぬるま湯に浸かって育ったために、どんな環境でも働けるだけの体力も気力もない人間が増えたのは事実です。そんな人間に限って、差別的な意識から抜け出せません。「あれは嫌、これも嫌」と言う言葉の根本に、「俺のプライド・・・」が付きます。本人が意識するほど他人はそのプライドを評価していないのに、口にすることで得られるささやかな優越感に浸っているのです。
日本人の差別感、その発生はともかく、政治的に利用されたのは江戸時代からでしょう。その伝統が、明治・大正・昭和と、時代を経てくるうちに、国内における差別から外国人(特にアジアの人々)に対するものへと発展してきた事は否定できません。江戸時代の賎民思想と同様、全く謂れのない差別です。これもまた先述したように劣等感の裏返しとして存在することは論を待ちません。「差別」を認めた時、それが何を根拠としているかを考えていただきたい。きっと差別する側の劣等感が感じられるはずだからです。差別を区別と言いくるめるのも同様の意識です。
『上を向いて歩こう』という歌が流行った時代があります。庶民が中流生活を渇望していた時代でした。それ自体は悪くありません。ところで、『お芋がころり』という寓話を知っているでしょうか、見せ掛けの中流を揶揄するとも取れる話です。これに類する笑い話がいっぱい有ったのも同じ頃です。「上を向く」ことは大事です。しかし地に足が着いていないとひっくり返ります。残念ながら差別はなくなりません。姿を変え、対象を換えて存続するでしょう。「有ってはならない」とは万民が口にします。しかし、建前でしかありません。自分が優位だから発せられるのであって、される側にいたら口を噤(つぐ)むはずです。子どもの喧嘩で済んだ話が大人の社会で始まったから始末におえなくなっているとは言えないでしょうか。
なくならない差別をどう考えていくか、『先ず隗より始めよ』です。道場に入ったら親もなければ、子もない。一人一人が独立した存在であり、仲間です。道場という「場」では何の区別もありません。好き嫌いは有っても仲間であることを否定はしません。外国の仲間もできました。全てを承知しているわけではありませんが、何のわだかまりもなく付き合えます。仲間だと思うからではないでしょうか。
勝ち負けや順番を付けなければ納得しない意識は、一生懸命努力している仲間を否定する言動となって現れます。個人に差があるのは当たり前であるのに、自分の都合でその差を強調したりします。自分より優れた他人の存在を否定したいからです。これを劣等感と呼ばずに何と言いましょうか。差別の根源の一つです。
心の修行を強く言うのも、道場における人と人の交わりに優劣はないということを強調したいからです。
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