“今まで、やってきた事は、捨てないものだ!”病で倒れたミックは、ロッキーに言う。
最強の黒人ボクサー・クラーバーとの対戦の前に心臓病で倒れたトレーナーのミッキー。ロッキーは、戦えない!ミッキーなしでは!「どうしたらいい?」 ミッキーは、言う。「戦えない?男は、“今まで、やってきた事は、捨てないものだ!”」
クラバーに無様にマットに打ちのめされたロッキーは、「虎の目」を取り戻すべくアポロと共に黒人がーのジムで復活のトレーニングをする。そこで、アポロと男の友情がうまれる。
武道は、古来から継承された日本の哲学です。「武士道」を「武道」とし拳法会の歴史や訓え各武道界の先生の教えを学びましょう。It is Japanese culture, and Budo is philosophy. Kenpo Kai regards Bushido as Budo. Let's learn the history and a heart(Kokoro).
2011年12月31日土曜日
2011年12月26日月曜日
部活動や武道必修化で指導する先生は、ご留意!愚かな指導者になるな!
試し合い(試合)は、己の技量を試す場で武道の求める目標ではない!
平法の剣(塚原卜伝 鹿島新当流)や活人剣(上泉伊勢守信綱 新陰流)は、拳法会と同じく「和の武道」、「幸せの武道」を目指していたと考える。
競技、スポーツでは、所詮、競い合う事で不安が生まれ、健全なる心の幸せには、つながらない。勝者は、常に1人!その勝者も限りなく闘わねばならぬ!常に幻にさいなまれる己のみが残る。その、状況下では、真の「和の武道」は、見つけられない。武道教育とは、幸せの道しるべを示すことにある。
試合(ためし合い)の愚かな者になっては、いけない。そこには、「和の武はなく」幸せはない。
学校で部活動や武道必修化で指導する先生は、ご留意いただきたい。部活、柔道、剣道、拳法は、健全精神を養うと思う迷信から脱却しなくてはならない。
世界拳法会連盟 大橋千秋
2011年12月23日金曜日
塚原卜伝の「平法の剣」、上泉伊勢守信綱の「活人剣」 平成24年武道必修化に向け!
戦国の乱世において「和の道」「平法の剣」を極めた塚原卜伝の「一の太刀」は、相手と一体化した技を超越した剣であった。私は、鹿島新当流については、全く無知であるが「一拍子の太刀」が現在の居合道につながっているのでは?と勝手に思っている。塚原卜伝の弟子に居合道の開祖林崎甚助が居る事も想像を掻き立てた。さらに、新陰流の上泉伊勢守信綱の活人剣など武士道の原点的な精神性、思想が産み出されていると思うとワクワクする。殺人の剣の道を進む中で人を活かす剣、平和、和の剣、「平法の剣」を追い求めたところに「武士道の原点」が見える。最近、戸山流居合道を藤川憲治先生から手ほどきを時々受けている。興味を引いたのは、一足一刀の剣でないところである。例えば、左足を出し抜刀し右足を踏み出し斬り下すところだ。鹿島新当流の「一拍子の太刀」(勝手に想像)を髣髴させる。
わたしは、武道必修化が平成24年度から完全実施されるが単に「メン、コテ」「背負い投げ、受身」を教えるのでなく武道のもつ日本伝来の心に触れる授業をしてもらいたいと考える。
世界拳法会連盟 会長大橋千秋
わたしは、武道必修化が平成24年度から完全実施されるが単に「メン、コテ」「背負い投げ、受身」を教えるのでなく武道のもつ日本伝来の心に触れる授業をしてもらいたいと考える。
世界拳法会連盟 会長大橋千秋
2011年12月16日金曜日
浜松市住吉青少年の家 和地山拳法会の稽古納め
2011年12月15日木曜日
司馬遼太郎が、「日本には、坂本龍馬、中岡慎太郎以来ろくな人物は、出ていないと思ったら、現代日本に村井正直がいた。」と称した人物。
司馬遼太郎が、「日本には、坂本龍馬、中岡慎太郎以来ろくな人物は、出ていないと思ったら、現代日本に村井正直がいた。」と称した人物こそ社会福祉法人わらしべ会の創設者の村井正直医学博士である。「中島たけし教授が私たちを弟子にしてください。」と言ったところ「とんでもない!義兄弟になりましょう!」とおっしゃった。今は、なき村井先生の追悼本が送られてきた。司馬遼太郎が「花神」を書き上げているとき大村益次郎に村井正直先生をダブらせたと言う。
2011年12月13日火曜日
戦争を回避するのにも胆力、知力が必要! 現在に通じるもの!!
先の太平洋戦争で日本は、世界を相手に戦いました。国力の差は、アメリカが12倍でした。戦争を回避するにも胆力と知力が必要です。日露戦争のときは、ロシアが8倍でした。
国民、国、家族を思う気持ちが胆力と知力を養います。百戦百勝は、最善でありません。戦わずして勝ち平和を保つ方が難しく「最善」なのです。 「百戦百勝は、善なるものの善にあらず。戦わずしてその兵を屈するが善なるものの善なり」
山本五十六動画
日露戦争でお金を貸してくれたユダヤ人の恩!
ヤコブ・シフは日本が国運を賭けて戦った日露戦争に当たって、勝算の少ない日本の国債を引き受けた人物である。1904(明治三十七)年二月に開戦、ロシアは、圧倒的な軍事力をもっていた。しかし日本人の知能、読み書き、そろばんは、優れ、世界でも最高位の国民識字率85%を越えており対するロシアの国民識字率は25%程度であった。「国民の頭脳」で勝った戦争であった。これは明治政府の「戦費調達」にも柔軟さが伺える。世界の誰もが、日本がロシアと戦うことがあれば、とうてい勝ち目がないとみていた。開戦が避けられない状況になると、日本は急いで戦費を調達しなければならなかった。開戦の前年の十二月には、日本銀行には円も含めて、正貨が一億六千七百九十六万円(千百七十万英ポンド)しかなかった。日本は、外国から借金をしなくては、戦争が出来ない状況であった。日露戦争が始まるとすぐに、当時、日本銀行の副総裁だった高橋是清が、日本の国債を売り込む使命を帯びて、まずアメリカに乗り込んだ。高橋の訪米は、徒労に終わった。当時のアメリカ人は日本が勝つことが万に一つもありえないと、判断していた。高橋は深い失意を味わって、次の目的地であったイギリスへ向かった。イギリスは日本の同盟国(日英同盟)であつたが日露戦争では中立であった。高橋はロンドンに一カ月以上も滞在して、精力的に走りまわった。高橋は日本の第一回目の戦時国債として、一千万ポンドを調達する任務を、課せられていた。日英同盟の誼から、ようやくイギリスの銀行団から、五百万ポンドの日本国債を引き受けてもらう約束をとりつけた。(利率は6%程度)だが、それではとうてい足りなかった。高橋は途方に暮れて、懊悩した。高橋はイギリスの銀行家の友人が催した晩餐会に、招かれた。その席上で、隣に座ったアメリカ人の銀行家から、日本について多くの質問を受けた。高橋は一つ一つ丁寧に答えた。高橋はその後に自伝の中でこの時のことを、いきいきと描いている。すると、翌朝、晩餐会を催してくれたイギリスの銀行家が、高橋をホテルに訪ねてきて、「昨夜、あなたの隣に座ったアメリカ人の銀行家が、日本の国債を引き受けようといっている」と告げた。隣席の人物が、ヤコブ・ヘンリー・シフだった。ヤコブ・シフは、「著名な金融家で、慈善家」である。シフは残りの五百万ポンドを、引き受けてくれた。高橋は愁眉を開いた。その後、シフは全世界に散ったユダヤ人に、日本の戦時国債を買うように呼びかけた。シフの力によって、ユダヤ人が日本が日露戦争の戦費を賄うために、戦争中に海外で発行した戦時国債のおよそ半分を引き受けてくれた。もし、この時に、ユダヤ民族の援助がなかったとすれば、いくら日本将兵の精神力がロシア兵に優っていたといっても、日本は勝つことができなかっただろう。日露戦争における日本側総戦費は19.8億円といわれるがその内8.9億円が外債であった。高橋は自伝のなかで、こう述べている。「シフ氏が何故に自ら進んで、残りの五千万円をひきうけようと申出てきたのであるか? 当時、私にはそれが疑問で、どうしてもその真相を解くことができなかった。しかるに、その後シフ氏とは非常に別懇となり、家人同様に待遇されるやうになってから、その理由があきらかになって来た。ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシヤにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、(略)故に、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシヤのユダヤ人を、その苦境から救はねばならぬと、種々物質的に助力するとともに、いろいろと運動を試みた」これらの戦費調達で日本は日本海海戦に勝利した戦艦群、陸戦で打ち負けなかった28センチ榴弾砲とその弾薬準備、世界最高性能の30式小銃を購入、量産、配備できたのである。シフは日露戦争が日本の勝利によって終わった翌年に、日本政府によって招待されて、日本を訪れた。明治天皇から宮中において親しく陪食を賜り、最高勲章を贈られた。昭和に変わっても日本政府はスイス銀行に金塊を置き、既発の国債の元利払をユダヤ人に対して続けていたのである。しかし官僚化し頭の悪くなった軍人、経済人達は何故か「借金」を極度に嫌うようになり昭和14年頃より武器や石油の支払に金のかかる「設備投資」や「精密加工機械」の購入をケチりだした。財閥も何故か日中戦争が行なわれているのに「赤字」を恐れていたのである。(戦争状態になり通常貿易がとまれば「赤字」「黒字」どころではないのだが)余談だが昭和14-15年頃から軍部の影響もあってか外国からのの「鉄」「アルミ」「石油」等の戦略物資の買付けに忙しくなった為か、「特許技術」「海外知識」の輸入が減少したようだ。そのため太平洋戦争は豊富な資源でである「人間(日本国民)」に器械のできない事をあえてやらせた。例えば「特攻隊」では誘導ミサイル技術の無さを「人間力」でやらせたし、食料の足りないガダルカナル島に3万人も送り込んだした。当時の大本営は武器が無くても「頭数=兵員数」だけあれば現地で何でもできると思っていた節がある。結果、飛行機用の液冷エンジンも実用化できず、ドイツ製航空機銃も造れなかった。後知恵だが「戦争に勝つ」のが目的なら借金して戦争開始で踏み倒すぐらいの狡さが必要であった。この点でも昭和の秀才は明治時代の秀才に劣っていた。昭和前期の秀才を馬鹿にするのは勝手だが平成の我々はどうだろうか?商業高校や大学の経済学部でも「借金は良くない」とか「働いて貯めろ」「宝くじを当てろ」程度の教育である。
現在もおなじである。失業率が上がっているのに公共工事などで仕事を与えない。反面、くだらない生活保護金を与えている。生活保護者は、3ヶ月も経つと仕事をすること仕事自身も忘れる。役人も同じである。くだらない重箱の隅を突っいた仕事を「仕事」と信じ込んでいる。 前線では、弾や情報を求めているのに「情報の文章がおかしい!」と言って止めている。情報のない前線の兵たちは、無残にも死んでいくのである。未曾有の東日本大震災や経済危機!旅順を指揮するために訪れた児玉源太郎であれば、貴様たちは、前線に出て銃弾飛び交う中、作戦を立て仕事をしろと蹴飛ばすであろう。参考(歴史好き<ナンチャッテ>)
国民、国、家族を思う気持ちが胆力と知力を養います。百戦百勝は、最善でありません。戦わずして勝ち平和を保つ方が難しく「最善」なのです。 「百戦百勝は、善なるものの善にあらず。戦わずしてその兵を屈するが善なるものの善なり」
山本五十六動画
日露戦争でお金を貸してくれたユダヤ人の恩!
ヤコブ・シフは日本が国運を賭けて戦った日露戦争に当たって、勝算の少ない日本の国債を引き受けた人物である。1904(明治三十七)年二月に開戦、ロシアは、圧倒的な軍事力をもっていた。しかし日本人の知能、読み書き、そろばんは、優れ、世界でも最高位の国民識字率85%を越えており対するロシアの国民識字率は25%程度であった。「国民の頭脳」で勝った戦争であった。これは明治政府の「戦費調達」にも柔軟さが伺える。世界の誰もが、日本がロシアと戦うことがあれば、とうてい勝ち目がないとみていた。開戦が避けられない状況になると、日本は急いで戦費を調達しなければならなかった。開戦の前年の十二月には、日本銀行には円も含めて、正貨が一億六千七百九十六万円(千百七十万英ポンド)しかなかった。日本は、外国から借金をしなくては、戦争が出来ない状況であった。日露戦争が始まるとすぐに、当時、日本銀行の副総裁だった高橋是清が、日本の国債を売り込む使命を帯びて、まずアメリカに乗り込んだ。高橋の訪米は、徒労に終わった。当時のアメリカ人は日本が勝つことが万に一つもありえないと、判断していた。高橋は深い失意を味わって、次の目的地であったイギリスへ向かった。イギリスは日本の同盟国(日英同盟)であつたが日露戦争では中立であった。高橋はロンドンに一カ月以上も滞在して、精力的に走りまわった。高橋は日本の第一回目の戦時国債として、一千万ポンドを調達する任務を、課せられていた。日英同盟の誼から、ようやくイギリスの銀行団から、五百万ポンドの日本国債を引き受けてもらう約束をとりつけた。(利率は6%程度)だが、それではとうてい足りなかった。高橋は途方に暮れて、懊悩した。高橋はイギリスの銀行家の友人が催した晩餐会に、招かれた。その席上で、隣に座ったアメリカ人の銀行家から、日本について多くの質問を受けた。高橋は一つ一つ丁寧に答えた。高橋はその後に自伝の中でこの時のことを、いきいきと描いている。すると、翌朝、晩餐会を催してくれたイギリスの銀行家が、高橋をホテルに訪ねてきて、「昨夜、あなたの隣に座ったアメリカ人の銀行家が、日本の国債を引き受けようといっている」と告げた。隣席の人物が、ヤコブ・ヘンリー・シフだった。ヤコブ・シフは、「著名な金融家で、慈善家」である。シフは残りの五百万ポンドを、引き受けてくれた。高橋は愁眉を開いた。その後、シフは全世界に散ったユダヤ人に、日本の戦時国債を買うように呼びかけた。シフの力によって、ユダヤ人が日本が日露戦争の戦費を賄うために、戦争中に海外で発行した戦時国債のおよそ半分を引き受けてくれた。もし、この時に、ユダヤ民族の援助がなかったとすれば、いくら日本将兵の精神力がロシア兵に優っていたといっても、日本は勝つことができなかっただろう。日露戦争における日本側総戦費は19.8億円といわれるがその内8.9億円が外債であった。高橋は自伝のなかで、こう述べている。「シフ氏が何故に自ら進んで、残りの五千万円をひきうけようと申出てきたのであるか? 当時、私にはそれが疑問で、どうしてもその真相を解くことができなかった。しかるに、その後シフ氏とは非常に別懇となり、家人同様に待遇されるやうになってから、その理由があきらかになって来た。ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシヤにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、(略)故に、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシヤのユダヤ人を、その苦境から救はねばならぬと、種々物質的に助力するとともに、いろいろと運動を試みた」これらの戦費調達で日本は日本海海戦に勝利した戦艦群、陸戦で打ち負けなかった28センチ榴弾砲とその弾薬準備、世界最高性能の30式小銃を購入、量産、配備できたのである。シフは日露戦争が日本の勝利によって終わった翌年に、日本政府によって招待されて、日本を訪れた。明治天皇から宮中において親しく陪食を賜り、最高勲章を贈られた。昭和に変わっても日本政府はスイス銀行に金塊を置き、既発の国債の元利払をユダヤ人に対して続けていたのである。しかし官僚化し頭の悪くなった軍人、経済人達は何故か「借金」を極度に嫌うようになり昭和14年頃より武器や石油の支払に金のかかる「設備投資」や「精密加工機械」の購入をケチりだした。財閥も何故か日中戦争が行なわれているのに「赤字」を恐れていたのである。(戦争状態になり通常貿易がとまれば「赤字」「黒字」どころではないのだが)余談だが昭和14-15年頃から軍部の影響もあってか外国からのの「鉄」「アルミ」「石油」等の戦略物資の買付けに忙しくなった為か、「特許技術」「海外知識」の輸入が減少したようだ。そのため太平洋戦争は豊富な資源でである「人間(日本国民)」に器械のできない事をあえてやらせた。例えば「特攻隊」では誘導ミサイル技術の無さを「人間力」でやらせたし、食料の足りないガダルカナル島に3万人も送り込んだした。当時の大本営は武器が無くても「頭数=兵員数」だけあれば現地で何でもできると思っていた節がある。結果、飛行機用の液冷エンジンも実用化できず、ドイツ製航空機銃も造れなかった。後知恵だが「戦争に勝つ」のが目的なら借金して戦争開始で踏み倒すぐらいの狡さが必要であった。この点でも昭和の秀才は明治時代の秀才に劣っていた。昭和前期の秀才を馬鹿にするのは勝手だが平成の我々はどうだろうか?商業高校や大学の経済学部でも「借金は良くない」とか「働いて貯めろ」「宝くじを当てろ」程度の教育である。
現在もおなじである。失業率が上がっているのに公共工事などで仕事を与えない。反面、くだらない生活保護金を与えている。生活保護者は、3ヶ月も経つと仕事をすること仕事自身も忘れる。役人も同じである。くだらない重箱の隅を突っいた仕事を「仕事」と信じ込んでいる。 前線では、弾や情報を求めているのに「情報の文章がおかしい!」と言って止めている。情報のない前線の兵たちは、無残にも死んでいくのである。未曾有の東日本大震災や経済危機!旅順を指揮するために訪れた児玉源太郎であれば、貴様たちは、前線に出て銃弾飛び交う中、作戦を立て仕事をしろと蹴飛ばすであろう。参考(歴史好き<ナンチャッテ>)
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