2013年9月9日月曜日

平成25年9月7日 拳法会合宿に於いて勉強会



アッシリア帝国(現イラク)紀元前5000年初めてできた帝国。目的は、資源でありエネルギーであった。(当時は、食料、木材、風、馬や牛など動物、奴隷等が資源でありエネルギー) ブッダ(釈迦)563年が生まれる。シャーカ族の王子として生まれる。様々な武術を修めるが、その後、王となるのをやめて僧になる。 マケドニア王国(前808-前168)アレキサンダー大王が古代オリンピック(前9世紀-後4世紀)に力を入れる。武術が主体でインドまで影響を与えている。 さて日本へ仏教伝来を目的とした鑑真和上と弟子・思託鑑禎(したくがんちょう・ウズベキスタン人?)達は、735年に日本に到着する。護衛役も兼ねた思託鑑禎は、釈迦(前624―前544)の武術も学んでいた。そして鑑禎は鞍馬山寺で武術を教える。剣術、棒術、拳法など、鞍馬山拳法と呼ばれる。それが後に京八流となったと伝えられる。 関東には、関東七流が生まれ、鹿島神流、柳生新陰流などが生まれてくる。(今の刀の扱いに近い)受身の考案者と称される関口柔心(三浦義辰より三浦流柔術、そして長崎で明人の陳元贇より拳法、捕縛術を学ぶ)なども、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流の祖である塚原卜伝に学んだと言われている。居合の祖、林崎甚助も塚原卜伝に学んでいる。 初代征夷大将軍 大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、二代将軍・坂上田村麻呂(796年)がアテルイを滅ぼして蝦夷を統一している。 795年桓武天皇は、京都に都を移した後、武徳殿を作った。 1000年代 「闘戦経」、日本最古の兵法書が書かれた。その後平安時代末期、平家の頭領平清盛が武士の世界を築く。 1650年ごろ 大道寺友山が「武道初心集」を表す。初めて「武道」の文字が見られる。これは武士道を表した本である。段位の基は、大橋宗桂(1555~1634)と言われ、囲碁で段位を作る。その後、現代に至る、このことから各界段位は8段までと奨励している。段位は強いからではない。努力したことを認められたものに与えられる。(認可証)拳法会では以前、黒帯を作って白線を入れ級と区別していた。白線3本は2級、白線2本は1級、白線1本は准段、すべて白線が取れれば初段とした。しかし、今の空手諸派は、白線1本は初段、2本は弐段、3本は参段・・・としている。大きな違いが見られる。明治に岡倉天心は茶の湯を茶道、お花を華道とし世界に紹介した。新渡戸稲造は、「武士道」と言う書籍を発刊し世界に紹介した。葉隠れ武士道(佐賀鍋島藩)、会津武士道(会津藩)そして近代。武道を学校で教えるために、武活動が取り入れられた。武科体操(拳法会体操の基)、さらに強兵策を高めるために武専(武道専門学校)を国が運営した。戦技の向上を目指した陸軍戸山学校も同様で戸山流居合道で現在も知られる。武専の挨拶は押忍(オス)であった。葉隠れ武士道からきた。おはようございます。→おはす→おす。お願いします、→おす。 となった。大橋千秋師範の師、加藤治佑先生は武専出身だった。高校時代は、長嶺耕史先生が師で名城大卒のため挨拶は、当然「オス」であった。そのため、拳法会の挨拶は押忍となった。加藤真一先生は、武科体操を昭和天皇に教えた。長嶺耕史、谷鐐吉郎先生などが大橋千秋師範の剣道の先生である。さて、拳技的には、錬成道場(名古屋)の中野耶祖二先生(武専出身)に大橋師範は、師事した。1971年に浜松に来て大橋師範は、朝倉邦夫・榊原清司・加藤修・浅井隆夫とともに拳法会を設立した。1974年加藤はアメリカへ渡り、大橋・榊原はオーストラリア・ニュージーランド・アジア各国・中華民国などに渡り武道の紹介に努めた。また多くの異種格闘技(キックボクシング・ボクシング・テコンドー・プロレスなど)と実戦を重ねるうち、錬成道場とは、異なる。今の拳法会の実戦スタイルが形成された。更に、拳法会は、安全性と自由に打ち合えるように防具の開発にも積極的でオリジナルで面・小手・胴の開発を行なった。(東海地区拳法会 山本敏雅本部長まとめ)

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