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2010年8月15日日曜日

人は、二度死ぬ!一度は、命を失った時!もう一度は、人々に忘れ去られた時!


TBSの終戦記念TV「帰国」で「人は、二度死ぬ!一度は、命を失った時!もう一度は、人々に忘れ去られた時!」と英霊が叫ぶシーンがあった。 なぜ、靖国神社に参拝しては、いけないのだろう!「戦犯もいるから!?」 日本人は、祖国のために命を落とした人たちを「二度、死なせている」

 とは言え!拳法会は、そのような理不尽は、許さない。少なくとも、若き血潮を燃やして盛り立ててきた「何もいうなよ!男同士は、胸ひとつ!」と言い合った。(時代が古く忠臣蔵の世界なので女性には、失礼!「男の世界」が存在した時代)
 
拳法会は、多くの先生から師事をうけた。昭和30年代の初期は、大橋千秋、昭和40年代中には、朝倉邦夫、浅井隆夫が活躍していた。朝倉邦夫は、大橋千秋の投げ技、寝技の師でもあった。このころから久田正孝、近田孝夫とも共に稽古していた。昭和40年代後半には、加藤修や榊原清司が拳法会の門をくぐりその後、大橋千秋、榊原清司が渡豪・NZしたため朝倉邦夫、山口(大橋)広子が拳法会を支えていていた。このような歴史の中、大橋千秋と義兄弟である朝倉邦夫も他界し親友の榊原清司も他界した。 それが朝倉邦夫杯であり榊原清司賞である。同輩と言えども敬慕と感謝の念も高く浅井隆夫は、朝倉邦夫に対し今でも敬意を表し近田孝夫も「本当に大切なことを決めるときは、会議での意見交換は、いらない!武士道では、目を見て決めるもと断言している」このようなことを忘れては、ならない。

2009年8月1日土曜日

師について「朝倉邦夫、師は、年長者とは、かぎらない」


三国志においても軍師、諸葛孔明は、その年齢を問わず師と仰がれていた。朝倉邦夫は、大橋千秋、浅井隆夫と同年代であるが投げ技、絞め関節技は、大橋に朝倉は、高校生時代の三年間、日曜日の稽古の後、柔道場で指導している。朝倉は、大橋のことを「桃太郎!桃太郎!」と呼んで兄弟以上の仲であり寒稽古、暑中稽古も常に一緒であった。雑誌の中に当時の活躍の一部が載っていたので紹介する。
朝倉邦夫は、現在の全日本拳法会本部長の浅井隆夫に対しても厳しく、弱音を吐くことを強く戒めていた。浅井隆夫が弱音を吐くと厳しいまなざしで睨みつけていた。