拳法会では、師について 人生の「道をしめし!みちびく!」じゅような人物を師と称している。単に武術の技や学問を教えるものを「師範」とは、言わない。子どもたちの模範となり「未来を少しでも明るいものに出来るもの、夢を与えることの出来るもの」を師としている。昨今は、自己主義のために子どもの未来を奪うような輩も師と呼ばれている。 そもそも、武士道においては、次のような行動の例がある。
子どもがヤクザの子どもを殴ってケガをさせた。親のヤクザが談判に来たとき、父親は、つかさず殴りかかり留置所に入れられた。留置所にたずねて来た子どもに「お前が人のものを盗めば、俺も盗む!お前が殴ってケガをさせれば、俺も殴る。常にお前と共にいる」と・・・・含蓄のある訓えである。
このように道をしめすのが師であり、模範となるのが師範である。 大橋千秋にも「心の師」がいた。太田敏である! 師というより父親といっても過言でない。もともと軍人志望であった太田敏は、血気盛んな大橋に「中庸」を常に態度で示した。 やたら攻めまくれば、粗暴であり!躊躇しすぎ下がってばかりでは、臆病者である。 全ての善は、その中間である「中庸」だと説いていた。
また、「師、持たざる者は、信ならず」とも言い。多くの人の声に耳を傾けろとの教えでもあり、「道を示す師がいない人物は、道を誤る可能性が大きい」ので注意が必要との教えでもあった。