“今まで、やってきた事は、捨てないものだ!”病で倒れたミックは、ロッキーに言う。最強の黒人ボクサー・クラーバーとの対戦の前に心臓病で倒れたトレーナーのミッキー。ロッキーは、戦えない!ミッキーなしでは!「どうしたらいい?」 ミッキーは、言う。「戦えない?男は、“今まで、やってきた事は、捨てないものだ!”」
クラバーに無様にマットに打ちのめされたロッキーは、「虎の目」を取り戻すべくアポロと共に黒人がーのジムで復活のトレーニングをする。そこで、アポロと男の友情がうまれる。
武道は、古来から継承された日本の哲学です。「武士道」を「武道」とし拳法会の歴史や訓え各武道界の先生の教えを学びましょう。It is Japanese culture, and Budo is philosophy. Kenpo Kai regards Bushido as Budo. Let's learn the history and a heart(Kokoro).
“今まで、やってきた事は、捨てないものだ!”病で倒れたミックは、ロッキーに言う。

先の太平洋戦争で日本は、世界を相手に戦いました。国力の差は、アメリカが12倍でした。戦争を回避するにも胆力と知力が必要です。日露戦争のときは、ロシアが8倍でした。
In the origin of the judo & Iaido, Kashima Shintoryu of Bokuden Tsukahara was related, too. the Father of the Iaido Jinsuke Hayashizaki is a student of Bokuden Tsukahara. Father of the Jyujyutsu Jushin Sekiguchi is a student of Jinsuke Hayashizaki.

昭和16年12月8日に太平洋戦争は、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど世界の列強国を相手に開戦された。四年後の昭和20年8月15日に日本の戦闘員戦死210万人、一般市民80万人を出し敗戦した。なぜ、このような残酷な戦争に突入したかは、別として、こんな暴挙は、二度としては、いけないと心に誓わねば成らない。



さて、今回は、近畿大学の岡田龍司准教授も交え少子化により相撲部、レスリング部になった高校、大学の例を挙げ野球部、サッカー部も廃部の危機にあることを提示した。静岡県立湖東高校では、柔道部は、廃部、剣道部も部員2名という危機的状況にある。わたしが母校名城大学体育会OB連合会の会合に出た折も感じたことは、大学経営陣も「体育教育」の観点でとらえておらず「大会主義」である感が拭えなかった。「知育」「体育」は、教育の両輪であり、自分の荷物も持てない者が他人の荷物を持つことが出来ないのであり、両輪揃ってこそ「徳育」が生まれるのである。「知育」のみのアンバランスな人間を育てては、いけないし、まして、体育教育を学校のコマーシャルに使うことのみ考えるのも教育者とし如何かと考える。
また、ほとんどの大学など学校は、体育を教育として真剣に取り組んでいるが何故にこのような事態に陥るのかを提案した。特に学区が定められた義務教育の中学校に「1.求める部活動がない。2.良い指導者がいない。」の2点に尽きる。小学生のときスポーツ少年団やクラブで活躍してきた多くの人材が中学になるとやめるのが現状である。柔道部がないのだから他の部活動に入る。当然なことである。この、不条理は、世界で日本だけでは、ないかと思う。地域クラブに中学の部活動を委託すれば、部活動の数も増え小学生のチームが少なくても入ってくる。
体育教育に対する姿勢、義務教育の部活動の改善がない限り未来はないのでは、と思うほどである。
この件については、以前、塩谷立文部科学大臣に問題定義をしたことがある。 今一度、真剣に考えるべき事である。 写 真 動画
世界拳法会連盟 大橋千秋


名城大学体育OB連合会事業報告会が名古屋ガーデンパレスで開催され出席した。わたしは、先輩、後輩と共に9名に混じり報告を聞いた。しかし、他のスポーツ団体組織と同じく少子化に向けての問題が大きく立ちふさがっている感がぬぐえなかった。大学の部活動の部員が3、4名という部もあるとの事でした。同時に運営資金難が直面している事が収益事業委員会の報告でその苦労が伺える。しかし、今、日本体育教育とスポーツが危機に直面している緊迫感は、なかった。
静岡産業大学の大坪学長が雑誌に「否定的な日本人!肯定的なアメリカ人!」という記事を書いていた。 わたしは、「否定とは、臆病な証拠」だと思っている。例えば、みなさんが国の〇〇省や地方の役所に報告書を提出するとする。臆病な役人は、「ここは、こう言われるとまずいから!!」てな具合にいっこうに前に進まない経験をお持ちの方は、多いだろう。 以前、ネパールからの武道研修生と公務員の生徒が話をしていた。ネパールの生徒が「ネパールでは、賄賂をやれば直ぐにできる。」と言った。そうしたら公務員の生徒が「能書きばかり言って逃げて、やらない日本の役人より!実行するネパールの役人の方が良いじゃないか」といった。インドの生徒も同調した。 少し、わたしの「人生」で生まれてから63歳までの周りの変化を考えて見た。わたしは、若いときは、「いくら正しい事」を言っても「若い=未熟」と言葉で否定されてしまい、慎重にならざるおえなかった。 ここが、ポイントで「若い=未熟」と言われるときこそ「断じて行えば、鬼神もこれを、避ける」と言う「勇気」「気魂」が必要となる。 未熟時代(若者時代)に、「勇気」「気魂」をもって「Yes!やれる!」と言うことが実力を築き上げる。 ところが60歳を超えると少々「自信がない」「十分でない」事でも若いときの実績が裏づけし「簡単に受け入れられて」しまいす。これも、おかしな話ですが未熟時代の実績の成果です。しかし、チョット危ないので勇気ある若者が熟年者を見なくてはならないと言う事です。 もうひとつ、例をあげれば、友人に伊藤千明さんと言う人がいます。伊藤さんは、太陽光の防災灯、街路灯、避難灯の普及を進めてきた。「大災害が来たとき暗闇のなかどのように避難するのか・・・」と言って受け入れられなかった人がいる。私も「環境防災地区の指定」や個人の家にも「簡易避難シェルター」が必要と言っていたので意気投合し活動していた。 以前は、掃き捨てられていたこの考えも、東日本大震災で浮上してきている。皆さんも若い時、未熟時代に「勇気・気魂」を養い実践してもらいたいものである。

是非、みなさん調べてみてください。
